rreunka’s diary

Snow Manへの愛しか叫びません。

推しへの愛を叫びたいがために立ち上げたブログ

時々ふと、自分はなぜ何十年もずっとジャニヲタでいるんだろうかと考える。

当然好きでやっているけれど、長い事ヲタクでいると、時にはしんどいこともある。

実際、辞めるタイミングならいくらでもあった。

それでも辞めなかった。

辞められなかった、が正しいのかもしれない。

 

思い返せば、私のジャニヲタ人生に目黒蓮という人が現れたのはもう随分前のことだ。

 

「1人背の高い子いるよね」と認識はしていたものの、当時すでに釣り好きな青い人の沼で長年にわたりプカプカしていた私は、すっかりそこを終の棲家だと思っていたので、他の沼が存在することなど考えもしなかった。

ところが今は黒い沼の底で魔女並に全身真っ黒三昧なのだからジャニヲタ人生は面白い。(あちらの青い沼は永久に不滅です)

 

冒頭でしんどいこともあるとは言ったけど、相対的に推しがいる生活は幸せだ。

推しがいなければ味わうことのなかった喜びや感動を何度も経験させてもらえるし、次に会える時をモチベーションにすれば、平凡な日常を積み重ねることもワクワクに変換できるし(もういくつ寝ると的な)、ここぞを乗り切る局面でも不思議なパワーが湧いてくる。

 

それと同時に、自分の存在意義の確認にもなっている。

 

ガチの論文書けそうな展開になりそうなので省略するけど、私はとある経験から、誰かのために何かをできるということは、生きていく上で大きな意味を持つと思っていて。

もちろん「やってあげてる」みたいな傲慢は大間違い。

そして見返りを求めた時点で真理を逸する。

 

世のため人のためみたいな大それたことじゃなくても、地域とか職場とか学校とかの小さなコミュニティーでも良いし、むしろ、家族とかあるいはペットとか最小単位でいいから、自分がいることが少なからず他者の利になっていると自分自身が思えたら、人は生きていけるような気がしている。

 

誰の役にも立たない、自分なんていても意味がない、なんのために生きているのか・・・という思考になると生きていくのが辛いから。

 

つまり、誰かのためと思って自分がすることは、決して人のためではなく、すべて自分のための行為であるということだ。(なので「やってあげてる」はそもそもおかしい)

 

推しを応援する時、特にスノは、長い下積みをあきらめずに頑張ってきた分、報われて欲しいと思うし、これまで取捨選択してきたすべてを、誰でもなく本人が肯定できるような「今」になっていればいいなと常に思っている。

ずっと思い描いてきたこと、やりたかった仕事、欲しかったもの、見たかった景色、全部全部彼らが手にできるように、ファンがファンとしてできることは何でもしたい。

 

とは言え、ファンができることなんてそう多くはない。

そしてここまで長々と書いてきたように、そうしたいと思ってするのは自分であって、見返りは求めていない。応援できるだけで十分。

 

それなのにスノは言う。「みんなのおかげ」と。

口にして何度も何度も伝えてくれる。

 

こうやって文章にすると、アイドルとしてただの模範的常套句のように思えるかもしれないけど、そうじゃないことをスノ担はおそらくみんな分かってる。

 

デビューライブの時、さっくんが言ってくれた「生きててくれてありがとう」。

その言葉にすべてが集約されていると思っている。

すべてのファンの存在意義をあの一言が認めてくれたし、その後も都度9人が伝えてくれる言葉が、私にはそれと同じ響きで聞こえる。

 

動画を回したり、円盤を買ったり、トレンドに入れようと指運動会をしたり、お礼のはがきを出したり、お世話になってる企業の商品をお礼買いしたり、自分ができることをしているだけなのに、その小さな1つ1つを全部価値あるものに変えてくれるのがスノ。

 

私がことあるごとに思い出すのは、2020年12月24日のめめ日常。

誤魔化さず、取り繕うことなく、真っすぐ伝えてくれたSOS。

改めて彼のファンで良かったと思った日。

辛い時はちゃんと頼ってくれるんだ、支えになることができるんだ、それがとても嬉しかったし、こちらの方が救われた。

 

Snow Manはアイドルで、こちらからは手が届かない人たちだけど、1人の人間として誰しも同じ価値があることをちゃんと知っているのが分かるから大好き。

そう、大好き。

 

ありがとう、ファンでいさせてくれて。

ありがとう、認めてくれて。

ありがとう、生きててくれて。